03
 ラバトリーの大きな鏡で後頭部をチェックすると、確かに髪が一房、ありえない方向にありえない角度で跳ねていた。だが、これぐらいなら軽く水で湿らせて手櫛を通せばすぐ直る。髪質だけは性格に反して柔らかく素直なのだ。

「ギャップ萌えとか、俺にはさっぱりわからん」

 宮原の隣に立った細田がしみじみと言う。もちろんそんな萌えなど宮原にもわからないが、女子高生でもあるまいし、用を足す気もないのにこんな所までくっついて来るお前の行動の方が俺にはわからない、と言いたい。
 しかも鏡越しに見つめてくるから、居心地が悪いことこの上ない。

「……何だよ」
「いや、まあ確かに美人だなーと思って」

 鏡に映った自分の顔を、宮原はついでのように眺めてみた。
 黒く長い睫毛に縁取られた切れ長の二重の目、通った鼻筋、紅をひいたように色づいた形のいい唇──、それらが卵型の小顔の上に絶妙なバランスで配置されている。確かに美人なのだろう。子供の頃から「綺麗な顔」だと言われ続けてきたし、それは自分でもわかっている。
 しかし取り替えたいかと訊かれたら、隣に映った細田の平面顔にでも替えてくれと即答したくなるぐらい、自分の顔に興味も愛着もない。

「俺が美人だったら何だっての」
「活かしてないからもったいない、って話だよ。宮原さ、もう嫁さんもらう気ないの?」
「…………おい、逃げられたばっかりの俺にそれを訊くのか」

 もう疲れました──というふざけた書き置きと離婚届を残し、妻の香穂里《かおり》が突然出て行ったのは、今から約九ヶ月前、昨年の九月のことだ。
 香穂里に金銭的な苦労をさせたことなどないし、大きな喧嘩をした記憶もない。何より雄飛という可愛い息子をもうけることができた。傍から見ればなんの問題もない幸せな家庭──だったはずだ。香穂里が出て行った理由は今もって謎である。
 容姿についても逃げた元妻についても、宮原にとってはあまり触れられたくない話題だ。鏡越しに細田を軽く睨みつけてみたが、宮原の睨みに慣れてしまっているらしい細田はちっとも怯まなかった。

「こないだ俺が話した子、マジで会ってみる気ないか? 可愛かっただろ?」

 確かに先日、細田の妻の友人だという女性の写メを見せられた。……が、可愛かっただろうと同意を求められても困る。大柄な細田の妻の横に、小指の爪ほどの大きさで写っていた女性の顔などうろ覚えだ。結婚を前提につきあってみろと、いきなり言われて面喰った記憶しか残っていない。

「バツイチ子持ちの俺なんて紹介されても、その女性も困るだけだろ」
「いや、彼女にもお前の事情はそれとなく話してあるんだ。『お子さんも手が掛かる時期だし、お力になりたいわ〜』とか言ってたぞ。まあ、ぶっちゃけ、お前の顔はかなり好みらしくて、それに釣られてる部分が大きそうだが」
「何でその人が俺の顔を知ってるんだよ」
「写真見せたもん。一昨年ぐらいの、慰安旅行の時のやつ」

 宮原は舌打ちと溜息をどうにか飲み込んだ。
 他人のプライベートを勝手に洩らしたり、離婚したばかりの男にすぐ女性を紹介しようとしたり、細田の無神経さに腹が立つことは度々ある。それでも強く咎めることができないのは、香穂里に逃げられ、どうにも動きが取れなくなった当時の宮原の混乱ぶりを細田は知っていて、本当に心配してくれているのがわかるからだ。
 もっとも、それで見合いに乗り気になるかどうかはまた別問題であるが。

「細田、ありがたい話だけど、やっぱり離婚してすぐまた見合い、結婚っていう気にはならないよ」
「でも毎日大変なんだろ?」
「今は前ほど大変じゃない」
「そうかぁ? 前は寝癖をつけたまま会社に来たりしなかったじゃん」

 結局話はそこに戻るのか……。
 今朝の高槻にしても細田にしても、宮原の寝癖がどうしても気になるらしい。今後、寝癖だけには注意しよう、と宮原は固く決意した。



back | next


[どうかとなりにいて欲しい]